1993年6月9日に当時皇太子だった徳仁親王と結婚され、2019年4月30日に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位したことに伴い皇后となられた雅子さま。雅子さまは外務省出身で、ご結婚前は「超ハイスペックなキャリアウーマン」と大きな話題を呼びました。
そこで今回は、雅子さまの若い頃がきれいだったことはもちろん、秀才中の秀才であったことを学歴と生い立ちを含めてご紹介いたします!
目次
雅子さまの若い頃①幼少期
雅子さまの家族構成は、父・恆(ひさし)さん、母・優美子さん、双子の妹・礼子さんと節子さんの5人家族です。父・恆さんは東京大学教養学部からケンブリッジ大学大学院に進み、外務省の事務次官を務めるほどのエリートで、母・優美子さんも慶応義塾大学を卒業後、エールフランス航空東京支社長秘書を経て結婚しています。雅子さまは東京の世田谷区で暮らしていましたが、2歳からは父親の仕事の都合でモスクワ、その後スイスを経て、4歳の時に米ニューヨークに一家で移住しています。
雅子さまの若い頃②小学校時代
小学校は現地の公立校のニューヨーク市立第81パブリックスクールに入学した雅子さま。雅子さまはこの頃から英語を学び始めますが、すぐに短文を覚えて先生の質問には完璧に答えられたそうです。また、英語の他には算数と図工が得意で、ニューヨーク時代にピアノも習い始めました。さらには、日本語を忘れないために、市内の日本語補習校にも通っていたそうですよ。
小学校2年生で帰国
雅子さまは1971年3月に一家で帰国。目黒区立原町小学校に編入しましたが、すぐ新宿区の外務省官舎に転居したことから5月には新宿区立富久小学校に転校しました。その後、編入学試験を経て、母・優美子さんの母校でもある田園調布雙葉小学校の3年生に編入学しています。
小学校では生物部に所属し、先生と昆虫採集をしたり、自宅ではイモリやカメレオンを飼育していたのだとか。また卒業文集には将来の夢は獣医と書かれていました。
また、帰国後も英語学習やピアノは続け、当時流行っていたローラースケートにも夢中になっていたそうです。
雅子さまの若い頃③中学校時代
中学校は内部進学で田園調布雙葉中学校に進学。中学時代の雅子さまは、同級生と一緒にソフトボール部を作るなど、スポーツ大好きな女の子だったようです。ちなみに雅子さまのポジションはサードで、中心選手として活躍。中学3年の時に出場した区大会では優勝もしています。また、当時プロ野球が大好きだったという雅子さまは、読売ジャイアンツの多摩川グラウンドが学校近くにあったこともあり、友人らと度々練習を見に訪れていたといいます。
中学時代の雅子さまの成績は英語は常に「5」で、ほぼオール5だったとのことです。
雅子さまの若い頃④高校時代
高校も内部進学で田園調布雙葉高等学校に進学した雅子さま。父親の米国転勤が決まり、高校1年生の夏に一家で再び渡米。アメリカではボストン州の公立校「ベルモントハイスクール」に編入しています。雅子さまは成績優秀だったことから、飛び級して2年生のクラスに編入しました。
また、高校では第二外国語のドイツ語の学習にも励んでおり、「ドイツ領事賞」と「ゲーテ・インスティテュート賞」を受賞。さらに卒業時には、アメリカ政府が全米上位5%の成績優秀生徒に贈る「National Honor Society」を受賞しています。
高校でもソフトボール部に所属
中学時代にソフトボール部に所属していた雅子さまは、高校でもソフトボール部と数学クラブに所属していました。高校時代も主力選手として活躍していたとのこと。ポジションはセカンドで4番打者を務めていたそうです。地元紙には「スラッガー・マサコがヒットを打って、ベルモント・ハイスクールが試合に勝った」と掲載され、父親が驚いたというエピソードもあるほどです。
雅子さまの若い頃⑤大学時代
雅子さまは、世界で最も合格するのが難しいとされているハーバード大学経済学部に進学。雅子さまは同大学以外にも、イェール大学やプリンストン大学などの複数の名門大学に合格していますが、日本で就職するには知名度のある大学が有利と考えて同校を選びました。
また大学時代はフランス語のサークルに参加し、大学1年生の時には日本文化クラブを自ら創設するなどアクティブに活動されています。日本文化クラブでは浮世絵や能の紹介や黒澤明監督の映画の上映、日本食の試食会など日本を紹介するイベントを企画実施しています。
大学時代も成績優秀
雅子さまは大学でも成績は非常に優秀で、卒業時には成績優秀な学生に贈られる「マグナ・クム・ラウデ優等賞」を受賞しています。経済学部の学生でこの賞を受賞したのは当時はまだ3人目だったといいます。
そしてハーバード大学卒業後は、1985年に東京大学法学部の3年生に外部学士入学しています。この時は100人が入学試験に臨みましたが、合格者はわずか3人というとても狭き門でした。雅子さまは米国での就職はなく帰国した理由について「米国に残ったら根無し草になってしまうような気がして日本に帰りたかった」と話しています。
1986年10月に外交官試験に合格
雅子さまは、駐スウェーデン特命全権大使・村角泰さんの娘が外交官になったことに刺激を受けて、東京大学法学部入学から半年後に国家公務員試験の中でも難関と言われている外交官試験を受験し合格しています。この年の外交官試験の合格者28名中、女性は僅か3名だったとのことです。
雅子さまの若い頃⑥外交官時代
外交官試験に合格した翌年には東京大学を中退して、外務省に入省した雅子さま。当時は外務省における女性初のキャリア官僚だったこともあり、大きな話題となりました。
また入省した翌年には外務省の研修留学として英オックスフォード大学・ベリオールカレッジに留学しています。約2年間の研修留学から帰国した後は北米局北米二課に配属されていますが、激務のため徹夜勤務や深夜に帰宅することも珍しくなかったそうです。
外務省時代には語学力を生かして、竹下登さんや中曾根康弘さん、海部俊樹さんら歴代総理大臣の通訳も務めています。
1986年に当時の皇太子殿下と出会う
1986年10月に外交官であった父・小和田条約局長令嬢として、スペイン国王カルロス1世の長女、エレナ王女歓迎レセプションに参加した雅子さま。この時に初めて当時の皇太子殿下と知り合いました。そして、雅子さまが29歳だった1993年に結婚され、皇太子妃となられました。
まとめ
今回は、皇后雅子さまの若い頃がきれいだったことや、成績優秀で外務省のバリバリのキャリアウーマンだったことなどをご紹介いたしました!「女性初のキャリア官僚」から皇室に入られた雅子さま。おそらく様々な不安や葛藤があったかと思います。しかし現在は皇后となられ、娘の愛子さまも立派に成長され、天皇皇后両陛下と愛子さまの幸せそうなお姿は、国民を笑顔にしてくださいますよね。雅子さまの今後のご活躍をお祈りしております!