寛仁親王妃信子さまは、麻生太郎氏の実妹であり、日本の皇族として様々な公務を担ってこられた方です。近年では健康上の問題から静養生活が続いていましたが、最近の動向や寛仁親王妃信子さまの若い頃のエピソード、また噂される夫婦関係について詳しく見ていきましょう。
華奢で清楚だった寛仁親王妃信子さまの若い頃
1955年4月9日、麻生セメント会長の麻生太賀吉と吉田茂元首相の長女・和子の間に三女として誕生した信子さま。幼い頃から松濤幼稚園、聖心女子学院を経て、英国のロスリンハウス・コレッジで学ばれ、帰国後は松濤幼稚園で英語講師を務めるなど、教育にも携わっていました。若い頃の信子さまは非常に華奢で清楚な印象の方だったと言われています。特に料理の腕前は素晴らしく、著作も出版されるほど。寛仁親王殿下からのアプローチも、そんな清楚な雰囲気と教養の高さに惹かれたのかもしれません。
突然の求婚から結婚へ
信子さまがまだ高校生だった1972年、当時26歳だった寛仁親王殿下から突然求婚を受けました。しかし信子さまはご自身でも若すぎると考え、その時は婚約には至りませんでした。その後、1980年4月18日の皇室会議を経て正式に婚約、同年11月7日に24歳で成婚されました。結婚後は東京都千代田区三番町の仮寓所に住まわれ、1981年に長女の彬子女王殿下、1983年に次女の瑶子女王殿下をご出産されています。
噂される夫婦関係の破綻
寛仁親王妃信子さまと寛仁親王殿下の間には、不仲説が囁かれていました。その真偽は定かではありませんが、2003年に寛仁親王殿下の癌が再発した頃、信子さま自身も一過性脳虚血の発作により体調を崩されています。2004年には発作が起こり、長野県軽井沢町の別邸で療養生活を始められました。さらに更年期障害も重なり、静養が長期化。この時期から寛仁親王殿下と別居状態となり、不仲説が広まる一因となったようです。2006年に一度は帰京されるものの、ストレス性ぜんそくや気管支ぜんそくなどの症状が再発。2008年に気管支喘息を発症し、入退院を繰り返しました。
現在の生活と公務復帰
寛仁親王殿下は2012年に66歳で薨去されましたが、信子さまの体調不良により葬儀に参列されず、喪主は長女の彬子女王殿下が務めました。この出来事も母娘の確執が囁かれる一因となっているようです。2013年になってようやく公務に復帰され、日本童謡学会の名誉総裁に就任するなど活動を再開されました。2022年には乳がんと診断され手術を受けましたが、術後経過は順調とされています。最近では、2024年3月に白内障と原発性閉塞隅角症の手術を受けられ、明治神宮参拝や全国赤十字大会にも出席されるなど、少しずつ公務を再開されています。
最新の動向
2009年から住まわれていた宮内庁分庁舎の改修工事に伴い、2025年3月31日から東京・港区の高輪皇族邸での仮住まいを始められました。改修工事は老朽化対策やバリアフリー化が目的で、総額約13億円をかけた2か年計画となっています。家族関係、特に長女の彬子女王殿下との確執も報じられていますが、信子さまは体調を管理しながら、可能な範囲で皇族としての公務を果たされています。
最後に
麻生家出身で元首相の孫という名門の家系から皇族となり、数々の健康問題や家族との複雑な関係を抱えながらも、寛仁親王妃信子さまはその品格と強さを持って歩み続けられています。高貴な家系に生まれ、皇族に嫁いだという華やかな人生の陰には、健康との闘いや家族関係の苦悩もあったことでしょう。そうした困難を乗り越え、今なお公務に励まれる姿勢は多くの人々に尊敬の念を抱かせます。今後も体調に配慮しながら、皇族としての役割を果たされていくことを願わずにはいられません。