夢は終わらない。カズ、56歳の挑戦。

夢は終わらない。カズ、56歳の挑戦。

21世紀、世界最高の選手はメッシなのか、それともクリスティアーノ・ロナウドなのか。その問いに終止符を打つように、アルゼンチンが優勝したカタールW杯が終わったのが2022年12月のクリスマス前でした。

サッカー日本代表がグループステージでドイツ代表とスペイン代表を打ち破るという、歴史的な勝利をおさめて心躍らせた人たちも多かったのではないのでしょうか?

そして今年も、スポーツニュースに目を通せば、新しい監督の就任による新体制の発表や記者会見が行われたり、選手の移籍発表が行われたりと、Jリーグの開幕時期が近づいてきました。

そんな中、この時期になるとニュースに必ず取り上げられる選手がいます。その選手の名前は『三浦知良』。毎年、この時期になると彼の来季の契約や所属先、恒例のグアムでのキャンプに関する話題でニュースを賑わせます。

さらに今年は、彼が所属している横浜FCの親会社が経営権を獲得した、ポルトガル2部リーグに所属するチームへ夏までのレンタル移籍が決定したりと、話題に事欠きません。

日本代表の伝説の背番号11番のように、オンラインカジノの世界でたくさんのファンを熱狂の渦に巻き込んだ可愛いキャラクター、ニッキーちゃんがお出迎えしてくれるラッキーニッキーで遊びながら、カズの伝説を振り返ってみませんか?

挫折の多かったブラジルでのプロデビュー

学生時代は地元・静岡県にあるサッカー名門校に通うも、進路を聞かれた際に「ブラジル」と答えて怒られたという伝説を残しているくらい、当時からプロサッカー選手になることを夢見ていたカズ少年。

その夢に近づく第一歩として、カズ少年は15歳になると学校を中退してブラジルに渡ります。当時から日本人選手はボール捌きなどの足元の技術に優れており、カズ少年もそれに漏れず、テクニックだけならブラジルでも十分に通用するほどでした。

しかし、当時は成長期真っ只中。フィジカルで他の選手に勝てるわけもなく、自身が目指したプロ選手への夢は、夢のまた先にある夢物語でしかありませんでした。それでも諦めず、意地でも夢を叶えて成功するため、カズ少年はブラジルに留まりました。

そして、決意を新たにした矢先に転機が訪れます。当時、所属していたキンゼ・デ・ジャウーのユースチームの一員として、地元である静岡県で開催されたユース大会に出場し奮闘します。

その活躍が認められ、W杯を三度制覇し『サッカーの神様』と呼ばれた、故・ペレ氏も所属したサンパウロ州に在る名門クラブであるサントスFCとプロ契約を結びます。

そこで、後にジュビロ磐田に所属したり、ブラジル代表監督としてW杯を二度経験した同代表のキャプテンであるドゥンガとチームメイトとなります。しかし、実際に出場できた試合は2試合だけでした。

せっかく勝ち取ったプロ契約でしたが、夢が叶ったのも束の間、嬉しい余韻に浸ることもなく、現地在住の日系人が発足させたSEマツバラにレンタル移籍をするとそのまま完全移籍することに。しかし、ここで諦めなかったのがカズ選手。レギュラーを獲得するとSEマツバラが所属する地域リーグ優勝に貢献する活躍をみせます。

この活躍によってアラゴアス州の選手権に所属しているCRBに移籍。そして遂に日本人としてブラジルの全国選手権に出場し、キンゼ・デ・ジャウーに再び戻ると格上に対して番狂せを演じ、自身の名前をブラジルの地に轟かせることとなります。

この時期に所属していたコリチーバFCでは日本代表との対戦も経験し、サントスFCへと戻ってきます。既にポジション別年間ランキングで3位に選ばれるほどの活躍をみせていたカズ選手はレギュラーの座を掴み、現地のサッカー雑誌の表紙を飾るほどの一流のサッカー選手として成長を遂げるに至りました。

夢に届かなかった日本代表

常に『W杯はサッカー選手の夢』と語るカズ選手ですが、2012年に開催されたフットサルW杯代表に選ばれたことはあるものの、サッカーW杯に出場する夢は叶っていません。

『日本でプロ選手として代表に選ばれ、W杯に出場する』という夢を胸にブラジルから帰国し、当時のヴェルディ川崎に所属していたカズ選手ですが、日本代表にも選出されてエースとしてチームを牽引する存在でした。

しかし、当時の日本代表は皆さんが知る『アジアの絶対王者的』としての位置から程遠く、まだまだ発展途上のチャレンジャーでした。

カズ選手の「魂込めました、足に」というセリフで有名な1992年のアジア大会を踏み台に臨んだ1993年のW杯アジア予選では、いきなり1試合に4得点を決めるなど勢いに乗っていましたが、イラク代表に試合終了寸前に同点ゴールを決められ、後に『ドーハの悲劇』と呼ばれるこの試合の結果により、彼の出場の夢は閉ざされました。

日本が初出場をした1998年大会では、アジア予選から日本代表は苦しみ、遂には自力での出場が叶わなくなってしまうほどの険しい道のりでした。当時の監督である加茂周監督は更迭され、後任の岡田武監督の初陣も振るわず、もう後がない状態。そして、日本代表は遂に『ジョホールバルの歓喜』と呼ばれる歴史の教科書に載るほどの大逆転劇を起こし、イラン代表に勝利、遂にW杯出場が決まります。

しかし、カズ選手は本大会メンバー22人には選ばれませんでした。カズ選手の代名詞である背番号11は、当時18歳だった小野伸二選手が着用してジャマイカ戦に途中出場しました。

これは全国的なニュースとなり、カズ選手はそれが影響し、当時所属していたヴェルディ川崎からクロアチアのディナモ・ザグレブにレンタル移籍として日本を去る事態にまで発展しました。

そして日韓開催の2002年大会。当時の日本代表の監督だったトルシエ監督は、カズ選手に代表スタッフとしてチームに帯同することを提案しました。しかし、選手としての出場を希望していたカズ選手は提案を断り、ルール上、不可能ではあるのにも関わらず、初戦のキックオフ寸前までトレーニングをして代表に呼ばれる準備をしてW杯を迎えました。

そして、2006年に開催されたドイツ大会。当時、日本代表を率いていたジーコ監督は、消化試合となったW杯アジア予選のシンガポール戦にカズ選手をサプライズ招集することを決めました。ただし、喜びも束の間。これもサッカー協会により却下されてしまい、久しぶりの代表招集は叶いませんでした。

そして、日本代表がホスト国以外で世界最速でW杯出場を決め、日本中が歓喜する中でグループステージの対戦国が決定します。

日本はブラジル、クロアチア、オーストラリアと、カズ選手がかつて所属したリーグ全ての国と対戦することになり、当時のサッカー協会会長も「運命がカズ選手を代表に招集することを伝えているのかもしれない」と漏らしていましたが、残念ながらW杯への出場の夢は叶いませんでした。

夢は終わらない

気がつけばカズ選手も今年で56歳。その年齢が海外のニュースメディアに取り上げられるほどです。当時40歳になったイブラヒモビッチ選手が、カズ選手のように現役を続けられるか質問されるなど、『キングカズ』は世界中で認識される存在となりました。

あるテレビ番組の取材では「まだ夢の途中なので、起こさないでください」と答えるほど、現役選手としてボール追いかけ続けたいと語るカズ選手。チャンスがあれば海外でプレーを希望することも語り、今回のポルトガル移籍ではそれが叶うかたちとなりました。

一生、『サッカー選手』としての肩書きを持ち続けたい、そんなカズ選手の、夢のさらにその先にあるものを追いかける姿を、私たちもファンとしてずっと応援し続けていきたいですよね。